氏神と初詣と猫の話
01/07
あっという間に2017年がやってきて、どちらさまも初詣を済ませた頃ではないかと思います。今年も宜しくお願いいたします。
初詣はいったい何処へ参拝すればよいのかと迷う時には、各々の「氏神」が間違いないとの事です。氏神とはそれぞれ住んでいる土地を管轄しているお近くの神様のことで、調べればすぐ見つかります。
自分も神社仏閣を好む奇妙な小学生がそのまま神社仏閣を好む奇妙な大人になってずいぶん経ちますが、父方の氏神にはちょっと突飛な特徴がありますので、書きたい話は数あれど今回はそれを題材にする事にいたします。
猫が、
猫が大量に居る神社となっております。
そこはもうずいぶん昔からですが、捨てられた猫や家出猫や旅の猫が次々流れつき共同生活を送る不可思議な場所で、その数は顔見知りだけでも十数猫、神社というロケーションも相まって目眩がするほどの独特さを呈する(妙な)パワースポットとなっています。
外猫については賛否両論あるとは思いますが、自分もたまに覗きに行っては彼らを眺めたり、同じように彼らに会いに来た自称写真家の方や、彼らに食べ物を配りに来る近所のオバちゃん等と話をするにつけ、外猫様方各位にも彼らは彼らでさまざまな暮らしの事情があるようです。
冬を越えて生き残った青年猫の覚悟のある(≒不細工な)顔を見ては、人も結局は(ブサイクながらも)その日その日のその日暮らしを生き抜ければそれでいいのかもなーと思ってみたり、子供猫に食べ物を探しに行った母猫がそのまま帰って来なかった話を聞いては、どこの親でも親というのはメシの心配をするもんなんだなあと思ってみたり。見ていて考えさせられる事も多々あったりします。
食べ物を配るオバちゃんを見ていても不思議なもので、
はい!オレ今日は1つも貰ってません!
と平然と嘘つきつつ、周囲を蹴散らしぐいぐい来る積極的な猫より、
いや、あの僕、今日はいいです……。
という遠慮がちな猫にこそ食べさせたくもなるようで、自分以外を押しのけ蹴り飛ばし、
貪欲に前に前に出る事も大事ですが、大きな目線を持つ相手に対しては決してそれだけが
全てではないのかも知れないなと思わされたりもしました。
何故か何となく身につまされる心境でもありましたので、初詣の願いの内容は自分の分は控えめにしておく事にし、その日は猫だらけの神社を後にしましたが、自分もまた1年、メシの心配(自分の)(注:自分の)をしながらもその日その日を何とか楽しく生き抜いて行けたらと思いました。
*
余談ではありますが、この神社を広く知らしめることでこの大勢の猫が暮らしやすくなるのではないかと考えた事があります。が、何となくやめておきました。
あまりに現実離れな様相を呈する不思議な場所ですので、人がどんどんやってきて彼らをウンザリさせてしまうと、
神社?なに?
あそこは20年前からただの畑ですよ?
というような事も起こりそうな気もしてくるってなもんだからです。
適度な室温と適度なストレスが身上の家猫と違い、外猫は毎日が死と隣り合わせですし自由というのは実はかなり不自由なものですが、それでも彼らは自らそれを選択して生きているわけで。余計な手出し口出しは野暮でしかないのかも知れません。
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